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飯村昭彦+冨岡雅寛カオスモス写真展
「超芸術」と「カオスモスマシン」の帯
 

宮田徹也/日本近代美術思想史研究

 

         
     

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私達は、いずれ死ぬ。私達は、時間と言う空虚の中から逃れることができない。その「帯」の中で、もがき苦しみながらも、死に向かって歩んでいる。

カオスモスマシンは、その冷徹な「帯」の経過を現象と言う形で教えてくれる。私達はそこに留まる形を、立ち止まって見詰めることが出来ない。何故なら、人は自己が生きている姿を、自己で観察することは出来ないからだ。

写真作品は、この時間を止めているようにも見える。しかしこの図像は、私達が持ち合わせる有限な「帯」の形の姿なのだ。それは私達が認知しているように、凍結できない。つまり、時間を留める術はない。

飯村昭彦は赤瀬川原平著『超芸術トマソン』の表紙写真、煙突真上からの俯瞰図においてデビューを飾った。その後「芸術状物質の謎」をテーマとし、数々のトマソンを撮影した作品を発表している。飯村の仕事の特徴は、ダンス等の動作ではなく、止まっているものを写している点にある。トマソンの定義は「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」だから、動くはずが無い。しかし冷静に考えてみると、飯村が選択するトマソンは、長い時間を経て、その役割を終えて、世の中から不要の烙印を押されたものである。つまり、「帯」をより多く背負っているとも言える。トマソンは、動いているのだ。

冨岡雅寛のカオスモスマシンは、マシンを作品として鑑賞するのではなく、人間がマシンに触れて、そこに現れる自然現象を体感することにその主眼がある。だからこの現象には、作者冨岡もマシンの形態も必要がない。この点において、カオスモスマシンを近代的個人天才指向と区別することが出来る。それは、「超芸術」の基本条件「アシスタントはいても作者はいない。ただそこに超芸術を発見する者だけがいる」点と共通する。しかしカオスモスマシンは「超芸術」ではない。個々がカオスモスマシンと関わらなければ、現象を創り出すことが出来ないからだ。

このカオスモスマシンと触る人間が創り出す現象の美しさに、魅了される人々は多い。現象のみを抽出し、映像作品として成立させることを薦める場合もある。しかし現象のみを切り取ると、カオスモスマシンの主眼から離れてしまう。それは、カオスモスマシンが人力以外を求めない点にも由来する。現象は自然的でありながらも、人の生理と深く関わっている。

飯村の作品は、このような構成的アプローチではない。画面処理などをせずストレートにプリントしただけというシンプルな方法と、トマソンを見出す眼力による撮影により、私達の網膜に映るカオスモスマシンの現象の形に、最も近い。この作業は、現象を作品として昇華させると同時に、見るものが自己で創り出した現象であるかのように錯覚させる。つまり、ここに飯村は居なくなる。飯村の作品は「超芸術」を写しているのではなく、飯村の作品を私達が見ることによって「超芸術」を発見する、つまり、飯村の作品自体が「超芸術」なのである。

私達は飯村が示す形を前提にして、忘れている「帯」を思い起こすのだ。それが、死を認識しながらも、それに怖れず、日々を迎える条件となるだろう。

宮田 徹也 awoniyoshi@themis.op.ne.jp

 
     
     
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